こだわった中学生時代

卒業平成元年3月(1989年)

この頃になると思い出すと恥ずかしいような黒歴史の一つはありそうなものですが、そういうのはなかったような気がします。でもはまり込むと夢中になる性格が最も発達した時期であります。

学級新聞でパズル(クロスワードパズルに似たようなもので、あらかじめ決められた言葉をマス目に埋める)を作るのにはまり、自分が学級新聞を作る係になると、毎日のように記事とパズルを作りまくっていました。パズルが好評で、朝の学活の進行を妨げるほどでした。

部活は美術部に所属しました。成績は悪い癖に、とにかく作るのが好きなだけで、「印象派」がなんなのか分からないままモネの「黄昏ヴェニス」を模写していたり、寄せ木細工を作ったり、七宝焼きを焼いたりして過ごしました。

こだわりの合唱の指揮

2年生からは毎年行われる合唱コンクールで指揮者になりました。2年生の頃は指揮をする経験はありませんでしたが、リズム感は高い方でした。しかし体が小さいので、みんなが歌いやすくできるよう、片手でリズムを取りながら大きなアクションを使って体で表現できるようにし、自分も歌うようにするようこころがけました。

私が移動中、ライバルのクラスが練習をしていたのを見聞きして、間違いなくこのクラスが一位を取るかもしれない。でも負けるわけにはいかないと思い、発憤されました。

結果はそのライバルのクラスが優勝し、自分のクラスは学年3位。しかし私は優秀指揮者賞を受賞し、クラスは優秀ピアニスト賞、そして最も栄誉のある合唱コンクール大賞を受賞しました。3位は悔しいけど、大賞はなぜ? と思いました。

2年生の優秀指揮者賞受賞者は、卒業式の在校生代表として合唱する曲の指揮を担当しました。これも印象深いものがありました。

3年生の時も指揮者を担当しましたが、優秀指揮者賞は逃したものの、クラスは優勝と合唱コンクール大賞を受賞しました。

文化祭の劇の台本執筆

2年の頃に、クラスの出し物として文化祭で発表する劇の台本を4人で作ることになり、私も担当しました。内容は4つの童話をつなぎ合わせて、脚色を付けて一つのストーリーにしようということになりました。

4つの童話が決まったら、どんどん脚本を書きました。本当は4人で協力すべきなのですが、一人で対象にのめり込む性格が邪魔をしたのでしょう、脚本の8割を一人で書いてしまいました。

キャストを決めるときに、「金のガチョウ」パートの主人公がなかなか決まらず、一人の女子が勇気を出して立候補。「ちょっと待って! 勇気はありがたいが、そこはコミカルな男子が演じるつもりで書いたのに…」

脚本執筆者は、出演と演出も並行して行っていました。4人は演技に注文を付けたり、一緒に執筆した女子は「白雪姫」パートの魔女になっていました。私も背が低いので、「白雪姫」パートのドワーフさんになったりしました。

舞台の切り替えのパートが多い「白雪姫」パート。舞台を切り替える最中に幕を閉じて客を待たせると、観客を飽きさせてしまう。そこでドワーフさんたちの移動中のシーンは客席の中を歩かせて観客の興味を引かせることを思いついたのです。

演出が功を奏したのか、脚本にちりばめたギャグが受けたのか、最後の王子様のキスが盛り上がったのか、観客には好評でした。

しかし、この文化祭のテーマは「創造」。文化祭の大賞になるとうわさされましたが、この劇のどこにそのテーマが入ってるんだという話になり、大賞は「該当なし」。まぁ楽しませるのに成功したので、それもまたよしとしましょうと納得した記憶があります。

百人一首クラブや生徒会総会でも

学校の百人一首かるた大会に備えて、3年のクラブ(部活ではなく、授業の一時限を使った活動)では百人一首クラブに所属しました。そこで上の句の○文字が△だったら、下の句は…というのを覚え、実戦に備えました。

カルタ取りでは学校で上から数えられるほどになりましたが、どうしても勝てない女子が2人いたのを覚えています。

手と手が触れあって、ときめいてしまうなんてシチュエーションなんてありませんでした。お互い真剣勝負です。しかし相手は余裕なのか「もっと低い位置から手を差し出して札に触ると良いんだよ」とアドバイスしていました。それが余計に悔しかった記憶があります。

また生徒会総会でも疑問に思ったことは積極的に全校生徒の前に出て発言していたことを思い出します。

やる気のない学級委員

3年の6ヶ月は学級委員にさせられました。面倒なことを押しつけられたと非常に被害者意識を抱き、委員会活動に全然参加していなかったようです。

私は正直クラスのリーダーなんて器ではありません。先生に叱られて少しは活動らしいことをしました。

任期が終わったあと、別の男子が委員長でしたが、彼はクラスのまとめるのがうまく、いっそ彼の方が適役だったのではと思いました。

みんなが私を推薦したのは、面倒なことを押しつけようということではなく、私が生徒会総会で積極的に発言をし、校内では評判が高かったのではないかと思うようになったのは、それから15年以上経過した頃でした。


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